1990年に GAMOJ が創設された当時、日本において外国人が集会を開くために公共・私的空間をきちんと確保するのは困難でした。 そのため、アフリカ出身の在日外国人にとって、帰属意識を持つことさえも容易ではありませんでした。

「アフリカ人どうしで集まりお互いの体験について話したり、日本文化に溶け込むためのアドバイスを共有したり、ただサッカーを楽しんだりすることのできる場所」

当時、日本に住むアフリカ人のためのコミュニティグループは、「アフリカンクラブ」と呼ばれる団体1つしか存在しませんでした。 このグループは、東京にあるガーナ大使館に勤務するガーナ人外交官によって設立されました。 すべてのアフリカ人を歓迎する場所として作られ、アフリカ人どうしで集まりお互いの体験について話したり、日本文化に溶け込むためのアドバイスを共有したり、ただサッカーを楽しんだりすることのできる場所でした。
グループの会員が徐々に増え、新しく参加してきた会員の大半はイスラム系でした。 アフリカンクラブでは、これまであらゆる国籍や宗教の人々を尊重してきましたが、もはやイスラム教がコミュニティの中心的な存在であることは自明でした。 結果として、アフリカンクラブではイスラム教を中心に据えた活動を行うようになり、それがやがて GAMOJ の創立につながったのです。
当時のイスラム系会員の一部は、近くにあった東京大学に通っていました。東京大学には、アメリカ、北アフリカ、ヨーロッパなど世界各地からイスラム教徒が留学しに来ていましたが、その大半はガーナ出身者でした。大学当局の温かな導きもあり、イスラム系の学生たちは急速に増えつつあったグループの会員が集まれる場所をキャンパス内に確保することに貢献しました。
1992年、アフリカンクラブは会員のニーズに応えるためには劇的な改革が必要だと判断し、議論を重ねた末にその名を「アフリカン・ムスリム・オーガニゼーション・オブ・ジャパン(AMOJ)」と改めることにしました。 その後、AMOJ は、大学が提供するあらゆる機会を利用して、数ヶ月間にわたり不定期の集まりを開くようになります。やがて AMOJ は集会のために毎回使用できる場所を確保するという幸運に恵まれました。
AMOJ の会員の一人であるアル・ハジ・サリス・フランクから、東京都豊島区駒込にあるシティホールの使用許可が降りたという知らせが入りました。これによって AMOJ の会員数はさらに増え続け、最終的には駒込への移転が決まりました。
この時点ですでに AMOJのコミュニティは大規模なものになっており、役員や規則を導入しようという話が持ち上がりました。 AMOJ の基本理念は度重なる会合の中で確立され、そこから正式な規則の草案が作成されました。この基本理念によって、AMOJ の未来が形作られていくことになります。

「日本に暮らすアフリカ系住民の生活は容易ではありませんでした。AMOJ は、会員の弁護士費用や医療費を負担したり、失業した会員に対して家賃援助を行なったりするようになりました」

人気投票を経て、アダーゴ・サムが AMOJ の初代会長に選任されました。 当初は2年任期の予定でしたが、AMOJ の活動を整えるための取り組みに充てる時間を確保するために2年延長されることとなります。
この当時、AMOJ は会員を支援するための具体的な取り組みを積極的に行なっていました。入国管理局による逮捕、雇用機会の不平等、日本社会が歓迎的でないなど、日本に暮らすアフリカ系住民の生活は容易ではありませんでした。AMOJ は、会員の弁護士費用や医療費を負担したり、失業した会員に対して家賃援助を行なったりするようになりました。
1996年、マラム・ムスタファ・ザルカリア・バクディ副総裁が新総裁に選出されました。 これは、本団体にとって苦難と試練、それと同時に成長と回復の時代だったと言えます。ムスタファ・ザルカリア・バクディ総裁は、複数の困難に直面しながらも、自らの責務を全うしました。1年以上にわたって総裁を務めた後、状況が変わりアダーゴ・サム氏の復帰と継続が必要となりました。1998年、AMOJ は千葉県市川市行徳へ拠点を移します。会員の多くがガーナ出身であることを考慮して団体名を「ガーナ・アフリカン・ムスリム・オーガニゼーション・イン・ジャパン(GAMOJ)」に改称したのもこの時です。
2019年、GAMOJ はついに現在の埼玉県草加市草加新田へ場所を移しました。GAMOJは現在、GAMOJ文化センターとして登録され、認定NPO法人として運営されています。


وَٱعْتَصِمُوا۟ بِحَبْلِ ٱللَّهِ جَمِيعًۭاوَلَا تَفَرَّقُوا۟
「皆でアッラーの縄にしかと掴まり、分断なきよう」